PR

アフガニスタン紛争

西アジア
この記事は約4分で読めます。
記事内に広告が含まれています。

アフガニスタン紛争の区分

主に下記の3つの期間に大別されます。

1978〜1989年

1978年に発生したアフガニスタン人民民主党政府に対するムジャーヒディーンの武装蜂起です。1979年に発生したソビエト連邦のアフガニスタン侵攻と
アフガニスタン政府軍とソビエト連邦軍とムジャーヒディーンとの一連の戦闘を指します。

1989〜2001年

1989年のソ連軍撤退後のムジャーヒディーンや軍閥による内戦。

2001年〜

2001年に発生したアメリカ合衆国および有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政府打倒のための介入です。

順に見ていきましょう。

アフガニスタン紛争(1978年~1989年)

アフガニスタン王国時代

アフガニスタンは立憲君主制の国家でした。
タラキーが指導するアフガニスタン人民民主党が
機関紙ハルク(人民)を創刊します。

国会で対立していたカールマルは
機関紙パルチャム(旗)を創刊します。

こうしてハルク派とパルチャム派に分裂します。
ハルク派が急進的で、パルチャム派は穏健派と見られていました。

アフガニスタン共和国樹立

1973年、
ムハンマド・ダーウードのクーデタでアフガニスタンは、
共和制が樹立します。

カールマルはクーデターに手を貸していました。
ハルク派から強く反発されます。

ダーウードがアメリカ寄りだったことから、
カールマルはダーウードから離反します。

カールマルとタラキーは結集し、
ソビエト連邦に接近します。

四月革命

1978年、ダーウード政権が崩壊し、アフガニスタン民主共和国が結成されました。ダーウードという敵がいなくなった後、
ハルク派とパルチャム派に再び分裂します。

ムジャーヒディーンの乱

ハルク派がパルチャム派を追い出した後、
アメリカが支援する地方の農民反乱(ムジャーヒディーン)が起こりました。
ハルク派政権はソビエト連邦に乱の鎮圧を頼みます。

ムジャーヒディーンの中には、ウサマ・ビン・ラディンもいたと言われています。

ソビエトの軍事介入

ハルク派の中でも指導者タラキーと軍人アミーンが対立し、
アミーンが勝利するものの、

1979年、ソビエト連邦がアメリカの影響力が強まると困るので、アミーンを殺害し、カールマルを首座とするソビエトの傀儡政権を作ります。

ソビエトの軍事介入により、
アフガニスタン内ではソビエト連邦への不満が高まって、
国連でも批判され、
結局、ソビエト連邦は撤退します。

アフガニスタン紛争(1989年〜2001年)

1989年2月ソ連は撤退完了し、
アフガニスタン各地のムジャーヒディーンは暫定政府を作っていきます。
政府軍とムジャーヒディーンの対立が深くなっていきます。

ムジャーヒディーンの各派

  • ラッバーニが率いるイスラーム協会
  • ヘクマティアル率いるイスラーム党

アフガニスタン内戦

イスラーム党ヘクマティアル派はサウジアラビアから支援を受けていました。

ムジャーヒディーンはアフガニスタン東部の都市ジャラーラーバードを総攻撃。
アフガニスタン政府軍はソ連の支援を受け善戦。

しかし、政府軍内はハルク派とパルチャム派の内部抗争が激化。

国防相のタナイがイスラーム党ヘクマティアル派と組んで
クーデターを起こすもドスタムにより失敗。

ソ連の支援も無くなり、1991年打ち切り。

ナジブラ大統領はムジャーヒディーンのマスードは和解しようとしますが、失敗に終わります。

1992年3月ナジブラ大統領は辞任します。
ムジャーヒディーンは首都カブールに接近、
難民が50万人発生します。

アフガニスタン・イスラーム国の樹立と内戦

1992年4月アフガニスタンイスラーム国が樹立します。

イスラーム協会主導に反発を受けた
ムジャーヒディーンが分裂します。
群雄割拠の時代に戻ります。

1993年イスラーム協会のラッバーニを追い落とすために、
ヘクマティアルとドスタムが共謀します。

1994年8月パキスタンやサウジアラビアの支援を受け、
ムハンマド・オマルを中心にタリバンが結成されます。

11月カンダハールを落とします。
タリバンはドスタムへのイランからの支援ルートを防ぎます。

1996年アル・カーイダがタリバンを支援。
これに対してヘクマティアルとラッバーニ、ドスタムは和平を結び、
アフガニスタン救国民族統一イスラーム戦線を作りました。
(のちの北部同盟)

タリバン政権によって、
アフガニスタン・イスラーム首長国ができます。

コメント